第3回は、椎野美由貴「バイトでウィザード」〜流れよ光、と魔女は言った〜、です。

この本を手に取った理由は、サブタイトルがディックの例の奴*1のインスパイアだったという点につきます。読んでみたところ、どこかしらディックなライトノベルでした。作品の構造としてはベタな構成です。ジャンル意識としては伝奇物とファンタジー物への参照が強いです。

地表に対して干渉を行なう「光流脈」と呼ばれる地下の脈を保護し、「光流脈」に澱みが生じたらそれを治療するという職業にたずさわる2人の双子の高校生のお話なんですが、この「光流脈」と「澱み」という設定はとても面白いと思いました。要は、光流脈というネットワークに保護されているが故に人間は健やかに生きていけるという前提がこの小説にはあります。この光流脈からの力をうまく制御する術を習得している人々が術師です。「澱み」というのは、人間が悪意をもつと、その悪意をもった空間の地下の光流脈に悪意が伝搬し、光流脈の力が悪いものへと転化してしまうのですが、その転化してしまった光流脈上のバグこそ「澱み」と呼ばれるものです*2。その意味で、この小説内世界は「光流脈」が這う地下と人間が生息する地上という2つの層から構成されています。2人の双子の高校生は、地上に住みながら、地下の「光流脈」の面倒を見るという仕事に携わっているわけです。いわば、彼等は光流脈というネットワーク上に生じたバグ取りを行なっている人々なんですね。そして、そのバグは地上に住む人間の悪意によって生じる。つまり、双子の高校生は人々が光流脈に対して犯す様々な愚行それ自体を取り締まることはできないのですが、そうした愚行が引き起こす光流脈上のバグ「澱み」を除去する掃除屋さんとして活動している。無情な職業です。


ディックとの関連を1つだけあげておきます。ディックの「流れよ…」において、ディックが論じていたことは、一方で可能世界を構成する際の定点であり、一方で可能世界のスイッチバックであるところの個人がもつ感情や記憶それ自体は、仮に可能世界へと移行したところで決して消し去ることはできないし、改変できないだけではなく、そうした感情や記憶をもつ個人と関わった人々に向かって、そうした感情や記憶は分有され、伝搬されてゆくのだというものでした*3。この可能世界への移行というトリックをうまく説明するためにディックが持ち出したのがドラッグであり、最終的にはそのドラッグの副作用で亡くなる人の遺族が亡くなった人の思い出や亡くなった人への追憶に浸り(記憶の分有)、涙する(感情の伝搬)というオチがラストにまっています。「バイトで…」もまた大切な人の喪失を出発点として、人の死と再生と思い出といったガジェットがフルで使われます。しかしながら、「バイトで…」においては、そうした死や再生といった出来事は大した問題としては扱われず、思い出もまた物語上において些細な役割を担うものでしかありません。この違いは何であるのか。結局のところ「バイトで…」においては、「光流脈」の維持こそが至上命題であるので、「光流脈」に対してネガティブな影響しか与えない人間という生物*4に生じる死や再生といった出来事、人間という生物が抱く思い出などというものはどうでもいいものなのだと思われます。その意味で、一読したところ感じる「バイトで…」に漂う無常観とは、「流れよ…」において通底する無常観とは質が異なるというのがkaseの感想です。人間などどうでもいいのだ、「光流脈」に支えられ、「光流脈」を荒らす馬鹿な生物なのだという視点でひたすら描かれています。そしてそうした視点を代弁しているのが双子の高校生の兄である京介です。また、「光流脈」に支えられ、「光流脈」を荒らす馬鹿な生物の代表として描かれているのが、妹の豊花です。「流れよ…」にある人間の生に対する絶望に裏打ちされた「それでもまた僕らは恋をし、涙し、死んでゆく」というポジティブなメッセージの内にある『それでもまた』感が「バイトで…」にはありません*5。それが「バイトで…」の作品としての魅力であると個人的には考えます。

豊花の馬鹿な女の子キャラは(個人的な好みとはずれますが)それなりに可愛いです、むしろ、京介の無感情ぶりに個人的には萌えました。

*1:「流れよ我が涙、と警官は言った」(flow my tears,the policeman said)

*2:このシリーズの肝は「悪意」の判定を誰が行うのかという点にかかっていると思われます。どうやってある人の行為には悪意が下敷きにされていることを判定するのか。たとえば、人類を救うために一人犠牲者を出さなければならないといった例外的状況においても「悪意」を判定することはできるのか。または、悪意があるのかないのか曖昧な境界例の行為の場合に、その行為が光脈流に「澱み」を生じさせるのかどうか、ナドナド。もっといえば「悪意」の定義ですな。この「悪意」というガジェットをうまく使えるか否かにこの作品の良し悪しはかかってくると個人的には思います

*3:つまり、一個人が死んだところで一個人を苦しめていた感情や記憶がこの世界からデリートされるわけではないという否定的な結論がそこでは示されていました

*4:その中には「光流脈」の維持に携わる人間も含まれるわけです

*5:だから、読む人が読めばディックはただの人間賛歌です。この卑小な人間の卑小さが美しく、愛らしいのだというベタな感じの。一方、「バイトで…」はディックという下敷きが無ければ、ウェルメイドなただのラノベです(誉め言葉)。kaseが過度にディックに引き付けすぎている感はありますので、あまりこの感想は鵜呑みにしないでください