第7回は、日日日の「狂乱家族日記弐さつめ」です。

今作は、「家族」が新婚旅行に行くという設定で話が進みます。そして、行く先々で巻き起こる大騒動。その首謀者はいつもどおり新妻で毒舌家で神でねこみみ娘の凶華なわけなのですが、そうした大騒動の中に凶華の想定していなかった騒動まで紛れ込んできて「家族」大ピンチ!というのが筋です。

おそらく、このシリーズを読んで「現在の子供達の家族感がうんぬん」とか「そもそも家族というのは擬制にすぎず、元来暴力的な制度でありうんぬん」とかしたり顔で語る奴は馬鹿だと思います*1日日日のすごさは、そうした紋切り型によって整理されてしまうような物語を反復していく中で、グロテスクな修飾語や比喩、固有名といったものを物語の中へと堂々と忍び込ませてゆく手法の手際のよさにあるのであって、話や筋が凡庸かどうかはまったく些細なことにすぎないとkaseは考えています。

ちょっと面倒な話をします。言語学とは関係のない言語の話です。修飾語や比喩、アナロジーといったものはある特定の共同体の中でしか流通しません。なぜならば、そうした語の振る舞いが何を意味するかは、その語が流通する共同体に帰属している必要があるからです。たとえば「りぼんマスカットコミックを大人買いしてこい」という罵倒語は「りぼんマスカットコミック」の社会的価値と「大人買いする」という述語の社会的意味を理解していなければわかりません。その一方で、固有名はどんな共同体でも流通します。たとえば、Jorge Bushという固有名はアメリカはもちろん日本でもイラクでも流通します。なぜならば、それが固有名である以上、何を意味するのかは知識に依存しないからです。

日日日の特徴は典型的な造語による固有名の使用と、グロテスクな修飾語や比喩の多様にあります。フィクション内における固有名の振る舞いは端的に誰も指示しないが故に、どのような固有名をフィクション内に導入することも原理的には可能です。その意味で、日日日の投げやりにも思える固有名の造語ぶりは、単純にフィクションの可能性を積極的に利用しているものだと考えられます*2。また、グロテスクな修飾語や比喩の多様とは、単純化すれば小説の射程距離を予め確定する手法と考えられます。グロテスクな修飾語や比喩が理解できる層に向けて、日日日の作品は書かれているわけです。

日日日の作品が凡庸であり、紋切り型にすぎないと考える人々は*3小説を構成している記号の配置を無視しています。もちろん、小説とはストーリーや物語を楽しむエンタメメディアだと思います。でも、ストーリーや物語は小説が提供する一側面にすぎないわけですから、ストーリーや物語が凡庸で紋切り型だからといって「くだらない」と考えることは思考停止だと思われます。日日日の作品を構成している記号、固有名や修飾語、比喩といったものに目を向ければ日日日がフィクションというものの可能性と限界というものを(意識的であれ無意識的であれ)積極的に画定しようという作業に勤しんでいることは確かでしょう。その意味でも、kaseにとって日日日は今一押しのラノベ作家なのでする。

あ、あと凶華と優歌は最高にかわいいよ。

狂乱家族日記弐さつめ (ファミ通文庫)

狂乱家族日記弐さつめ (ファミ通文庫)

*1:そんな人、いねーよね。というわけでこの暴言は以下の文章への前振りということで。すんません。

*2:西尾維新との対比についてはここでは述べません。

*3:だから、そんな奴いねーっつーの。。