第4回目は、桜坂洋スラムオンライン」です。とてもおもしろい小説でした。

この作品は小説内における他ジャンルへの参照ではなく、ネットゲームと格闘ゲームという他メディアへの参照が志向された作品です。その意味では、カクゲーやネトゲに対する知識のデータベースを読者が予め構築しているであろうという予測のもとに書かれた作品といえます。

テツオは右手前方へ斜め移動する。リッキーは突進するとみせかけ、キャンセルして斜め移動。リング中心を軸に、ふたりは半時計まわりに60度回転する。テツオがいちばん出の速いパンチを放つ。リッキーはしゃがみバックダッシュ。テツオはクイックフォワード。パンチをキャンセルしてさらにクイックフォワード。小刻みに後退するリッキーに追いすがる。リッキーが中段の蹴りを放つ。ぎりぎりの数ドットで見切り、テツオはつま先蹴り。ヒット。浅い。カウンターではない。テツオはさらに前進する。

こうした表現が非常に多く頻出します。もちろん、カクゲーなど知らなくとも、上記の表現から推測によって情景や場面、ゲームの中のキャラクターの動きを推測することはできます。しかし実はこの小説を理解するには、上記のような表現によって描写されるカクゲー内のキャラクターの動きとゲームスクリーンの前に座っている人間のコントローラー操作との間に一対一対応があるのだという前提を理解している必要があります。この一対一対応を東浩紀の言葉を使えば「ゲーム的リアリズム」と呼ぶこともできるでしょう。では、どうしてこの前提を共有することがこの小説の理解において必要であり、どうしてこの一対一対応は「ゲーム的リアリズム」と呼ばれるのか。

単純にいえば、ゲーム内のキャラクターを操作している画面の前の私と、ゲーム内のキャラクター(擬似「私」)との間の関係について描かれているのが、この「スラムオンライン」という小説であるということがまずいえます。もっといえば、ゲーム内世界とゲーム外世界の区別が厳密に峻別されたうえで、なお、画面の前の私と擬似「私」の間に奇妙な連帯や同一視が生じてしまうのはなぜかを「スラムオンライン」は小説内において描きつづけます。つまり、現実とバーチャルという区別のもとで、どちらに優先順位をおくべきかという議論*1とは根本的に異なった考察がこの小説の中においては行われているのであって、それを理解するためには先の前提を共有しておく必要があります。

ゲームとは何よりもまずいくつかの規則のもとで構築されたシステムであり、そのシステム内においては当然ながら規則に習熟した者からそうではない者まで、プレイヤー間に程度の差が生じます。特にオンラインゲームであれば、自分がその世界においてどの程度の位置にいるかがすぐにわかります。これは学校でテストをして、自分が何位くらいか、どこの大学には入れるのかをすぐに算定するというシステムと基本的には変わりません。まずこの他人との比較ということが私と擬似「私」の間に生じる奇妙な同一視や連帯感のひとつの根拠です。もっとわかりやすくいえば満足感というやつです。

一方でゲームに習熟すればするほど、ゲームに対して割かれた時間的コストは増します。画面の前の私と擬似「私」の間に生じる奇妙な同一視や連帯感のもうひとつの根拠はここにあるのではないか。つまり、あるゲームの規則を習熟するために画面の前の私がどれだけ時間を費やしたかが擬似「私」への愛着を高める。しかしながら、このもうひとつの根拠は次のような側面ももっています。学校におけるテストや資格試験といったゲーム、あるいは野球といったゲームとは異なり、カクゲーのようなゲームに習熟することは、社会的には特に評価される技能ではありません。つまり、カクゲーの習熟に費やされる時間やコストは「無駄」なものだと社会的には評価されます*2。ここで生じるのが、この「私」は何であるのかというとても古典的な主体への問いです。どうしてこんなに私はゲームに時間を費やしているのか。ゲームに時間を費やしている私とは何か。もちろん、ゲームのもつ無償性それ自体が魅力だという人々もいるはずです。しかしながら、ここには先のようなこの「私」にまつわる懐疑が挟み込まれる契機があります。そして、その懐疑を増幅させて描写したのが「スラムオンライン」という作品だといえると個人的には思います。その意味で「スラムオンライン」はこの「私」とは何かという古典的な主題をオンラインゲームという現代的なガジェットをサンプルに用いることで描いている作品といえます。

東が「ゲーム的リアリズム」というときに前提としているのは次のような問いです。過去においては小説がこの私という問いを考える契機として大きな役割を果たすメディアであったのに対して、現在はゲームが同じ役割を担ったメディアとなっているのではないか。もちろん、圧倒的多くのゲームプレイヤーはこの「私」などという大仰なものを意識的に考えるわけはありません*3。また、ゲームというメディアに媒介されたうえで、古典的な問いであるところのこの「私」探しが始まってしまうというのも少しマユツバな話です。もし、こうした観点から議論を行うのであるならば、ゲームというメディアのもとで、古典的な問いであるところのこの「私」探しが根本的に変わる様こそが描かれる必要があるのではないでしょうか*4。でなければゲームというメディアの特性を描くことがそもそもできないと思われます。「スラムオンライン」は、少なくとも、この「私」探しという古典的な問いが「ゲーム的リアリズム」のもとでいかに変容するのかを描写しようとしているという意味でとても意欲的な作品だと思いました*5

で、ようやく本題なのですが、この「私」探しという古典的な問いが「ゲーム的リアリズム」のもとでいかに変容するのかを桜坂はどう描写しているのか。ひとつは、主人公が、ゲームはゲーム、ゲーム外はゲーム外という切り分けを最終的には肯定するのですが、その肯定は別に主体的なものではないものとして描写されている。なんとなく、そんな切り分けでうまくやっていけるという確信がそこでは記述されている。もちろん、ゲーム内での目的の達成という出来事があり、同時に「自分にとってゲームとは何ぞや」という哲学的すぎる問いにも主人公は解答を見つける。しかしながら、それを経た上で特に主人公が成長したかというとそんなことはない。単に切り分けを肯定する。これが桜坂の描く古典的な問いの変容です。ゲームの外もまたゲームと同じルールで回っているという89年当時のいとうせいこう的な感想にも至らず、やっぱりゲームの外の出来事の方がリアルだなどという馬鹿な結論にももちろん至りません。なんとなく、ゲームはゲーム、ゲーム外はゲーム外という切り分けのもとで生きていこうという妥協みたいな結論が描かれている。もっといえば、擬似「私」やこの「私」を統括する「私」がいるのかいないのかという問いそのものを放棄するのが「スラムオンライン」の結論です。

そもそもの出発点は、ゲームのキャラクターの動きとそれを操作する画面の前の私の間に一対一対応があり、さらにゲームというシステムのもとで生じるさまざまな事情から、ゲームのキャラクター(擬似「私」)と画面の前の私の間に奇妙な同一視や連帯感が生じるという現象の描写でした。そして、この関係(ゲーム的リアリズム)を前提として、この「私」を問う契機が生じる様を増幅させて描いたのが「スラムオンライン」という小説です。そして、その結論は擬似「私」も画面の前の私も同じくらい「私」だというよくわからない結論でした。この結論はとても正しいものだと思います。異なるシステムのもとではそれぞれ異なる規則の集合があるのだから、システムに対応する規則の集合をうまく見つけ出し、それを習得し、やりすごす術を獲得すればよいのだというとてもポジティブな結論がそこにはある*6。そして、異なる規則の集合ごとに異なる行為者としての「私」がいるのだという話もとても合点がゆくものです。

しかし、実はここにはコミュニケーションの問題が欠けています。なぜならば、システム対私という対立しかこの小説では問題になっていないからです。もっといえば、システムを私がいかにして切り抜けるかということが延々と記述されている小説と読むこともできる書かれ方になっています*7。その意味で、ネトゲ廃人と主人公の差をコミュニケーション能力の有無に回収しようとしている気配がこの小説内にはあります。なんかよくわからない理由で、同じ大学の女の子に惚れられ、なんかよくわからないうちに、ネット上でも多くの知人ができる主人公。そんな主人公がなんとなく悟りを開くという様は、ある意味でとても脱力するかもしれません。馬鹿を承知で書けば、この小説の中にはシステム改変の契機もないし、システム批判の契機も当然ない*8。システムへの対処の仕方と訓練の大切さが切々と説かれている小説です。その意味では、個人的には「よくわかる現代魔法」の方が好みです。

スラムオンライン (ハヤカワ文庫 JA (800))

スラムオンライン (ハヤカワ文庫 JA (800))

*1:典型的にして古典的な議論が、現実とバーチャルを混同するなという馬鹿な議論です。バーチャルもまた現実であり(ゲームをプレイするのに電気代やらハードやらソフトやら時間やらといったコストがかかることはもはや誰もが承知の事実です)、現実もまた一人一人にとって異なる格子で切り取られた異なる仮想にすぎないという当たり前の事実を無視するのはどうなんでしょうね。

*2:この社会的評価が変わるのではという予測から考え出されたのが、東浩紀桜坂洋が進めているgeet stateプロジェクトのコア概念であるgeetと呼ばれる職業です。geetはオンラインゲームに従事することで対価を受け取る職業についている人々です。もちろん、今現在でもプロゲーマーという職業は韓国を中心に日本にも少数ながら存在しますが、圧倒的に多くのゲーマーはいまだにゲームの消費者であって、ゲームを媒介として金銭を稼ぐという生産のフェイズには移行していません。しかも、プロゲーマーといっても基本的にはゲーム企業の広告塔であるという意味では高橋名人の時代から何も変わっていないわけです。kase個人としては、geetに対価を払うメリットを企業がどう算定していくのかをどう論じるのかに興味があります。

*3:そんな世の中は嫌じゃ。

*4:東が動物化するポストモダンでデータベースの話を論じた際に問題としていたことも、この「主体」のあり方の変容の話ですし、もっといえば技術によって欲望の配置のされ方がどう変わるのかということを東は一貫して論じているわけです。固有名論的な欲望のあり方とは異なる欲望のあり方を「ゲーム的リアリズム」で東は論じようとしています。

*5:その試みが成功しているかいないかは別の問題ですが。

*6:たとえば桜坂がゲーム内のバグというシステム内の欠点の発見の話や、リッキーと戦って敗れた際の原因がゲーム内の条件に対する主人公の無知である点などを細かく記述する理由はこうした結論が背景にあると思われます。

*7:まぁ、人称の問題がでかいとは思いますが

*8:だからといってこの小説の価値が下がるわけではもちろんないし、書いていないことをウダウダいっても仕方がないのだけれども。