日本語でラップをする*1際には、大きく分けて2つの手法があります。1つは文字でラップをする手法、1つは音でラップをする手法です。もっと具体的にいえば「246抜け 山手通り やがて脳裏にきつく 焼きつく場面」(行方不明/k-dub shine)というワンフレーズは「山手通り=やがて脳裏=ああえおおい」「きつく=焼きつく=いうう」という母音で韻を踏んでいます。これは、文字の母音を合わせる手法で韻を踏んでゆくシンプルな例です。一方、「注目に値するnew sound 乳酸ためて派手にmove on up」(let it flow again/bose)や「朝から朝まで a summer day」(イツナロウバ/little)といった例は「new sound=乳酸」「朝まで=a summer day」という音で韻を踏んでいます。これは発話してみると、同じ音韻を踏んでいることが分かるシンプルな例です。大きく分けるとこの2種の手法があるわけですが、音でラップする手法のほうが発話の際にメロディをつけやすく、耳ざわりのよいものになる特徴がある一方で、文字でラップする手法のほうは発話の際に単語単語で区切られてしまうために耳ざわりの悪いものになる特徴があります*2。今日解説するラッパ我リヤは文字で韻を踏むという手法を極限まで突き詰めるあまり、音楽としてはとてつもなく耳ざわりの悪い音を作り出してしまっている人々です。彼らの特徴は、押韻にこだわること、韻を踏むことにのみ全力を尽くすこと、その結果として発話の問題を完全に無視するような音楽になっていることです。


ラッパ我リヤの2枚目のアルバム「ラッパ我リヤ伝説」は一聴すると非常に聞きづらいアルバムです。しかしながら、彼らの目的は「ただひたすらに韻を踏みつづけること」にあるわけですから、踏みつづけた結果として聞きづらい音楽となっていたとしても、それは彼等の作品を悪く言う理由にはなりません。たとえば「粋な計らい込め言葉バラ巻き大空に羽ばたいてくような山田氏やたらにまばたきせず新しい輝き持った眼差しで阿呆黙らし」(Do the GARIYA thing/山田マン)というフレーズは「計らい=バラ巻き=羽ばたいて=山田氏=やたらに=まばたき=新しい=眼差し=黙らし」とすべて「あああい」で踏んでいるわけです。また、「日本HIPHOP戦国時代 俺らは決して減速しない 思いっきりかっ飛ばすぞ お硬ぇ頭一撃でズバッと割るぞ」(新時代/Q)というフレーズは「戦国時代=減速しない」を「えんおういあい」で踏み、「かっ飛ばすぞ=ズバッと割るぞ」を「あっおあうお」で踏んでいるわけです。さらには、「リアルな気迫で聞かす魅惑の刺客がお堅い物理学より意義ある リリカルな内容キリなくヒり出すことでびびらす」(七人の侍/Q)というフレーズは「リアル=気迫=聞かす=魅惑=刺客=物理学=意義ある=リリカル=キリなく=ヒり出す=びびらす」を「いあう」と「いいあう」で踏んでいます。ここにあげた例はラッパ我リヤ押韻で踏んでいる一例であって、アルバム内の歌詞の大半が同レベルの押韻によるラップを行っています。

さて、ラップを馬鹿にするいくつかの文句をあげてみましょう。「ラップって駄洒落だよね」という文句があります。では駄洒落とは何か。駄洒落とは単純にいえば、音韻が等しい単語を反復する言葉遊びです。「布団がふっとんだ」等が代表的な例です。これは「うおんあ」が反復されています。その結果、作られた文に意味はほぼ何もありません。なぜならば、音韻が等しい単語を反復するということが駄洒落の目的であり、駄洒落を構成する単語の意味論的次元における内容を伝達することは駄洒落における二次的な目的にすぎないからです。「布団がふっとんだ」と言われ、「だから何?」と聞き返す人は、駄洒落という言葉遊びが「音韻の等しい単語を反復し押韻を作り出すゲームだ」ということをまったく理解しておらず、もっと言えば文法的に(統語論的に)正しい語順で単語が並べられた文には常に伝達される内容があるに違いないという固定観念を前提にしているといえます。駄洒落には伝達される意味内容がある必要はありません*3。音韻のみが駄洒落を構成する唯一の要素なわけなのですから、意味を問うても仕方がありません。押韻さえそろっていれば良いわけで、意味内容は二の次にすぎず、少なくとも駄洒落という言葉遊びはそういう規則で成り立っているわけです。したがって「ラップって駄洒落だよね」という文句には「そうだよね、駄洒落で何が悪いの」と言うことができるでしょう。駄洒落という単語がもつ社会的意味は確かに非常にネガティブなものですが、そもそも言葉遊びという言語内在的な働きに舞い戻れば、駄洒落という単語がネガティブな価値をもつはずはありません。「駄洒落」の定義は「押韻を反復させる言葉遊び」なわけですから。

次に「耳ざわりが悪い」という文句があります。音楽には耳ざわりのよいものもあれば、悪いものもあります。ラップという歌唱法にもさまざまな様式があります。メロディアスに文字を発話するものから、単語単位で文字を発話するものまで。そして冒頭で語ったように、文字で韻を踏む手法と、音で韻を踏む方法にラップの様式を大別した場合、前者のほうが単語単位で文字を発話する場合が多く、結果としてぶつぶつと平坦な発話が持続的に連続する結果となります*4。その意味で、韻をどう踏むかというラップの手法に応じて、発話法がメロディアスになったり、ブツブツとつぶやくものになったりすると大雑把にまとめることができます。「耳ざわりが悪い」という印象を聞き手に与える発話法には理由があるわけです。その理由とは、文字で韻を踏む、文字でラップをするという手法上、傾向的にメロディアスなラップにならないというものです。

これを言い換えれば、こうなります。文字で韻を踏む手法を選択する人々と、音で韻を踏む手法を選択する人々がいる。前者は、耳ざわりの良さではなく、韻をどれだけ踏めるかというルールでゲームを行っている、後者は、どれだけ耳ざわりのよい発話ができるかというルールで勝負しているがゆえに、韻を何回踏めるのかは問題にはならない*5

ラッパ我リヤのラップは明らかに前者を志向しています。しかも、「どれだけ韻を踏みつづけるか」というルールでしか勝負をしていないため、作られ、発話される文に意味はなく(「駄洒落でしょ?」)、発話法も耳ざわりのよいものではありません(「耳ざわり、悪くない?」)。もっといえば、駄洒落であるし、耳ざわりが悪いのがラッパ我リヤのラップの定義だといえるでしょう。これは別にネガティブな意味ではありません。明確な意図とコンセプトを選択しているがゆえに生じてきた必然的な結果としての「駄洒落」であり、必然的な産物としての「耳ざわりの悪さ」なわけです。その明確な意図とコンセプトとは、何度も述べているように押韻を限界まで踏みつづけるというものです。彼らほど押韻を踏みつづけることができる人々は、日本語ラップの中にもそうそういないのではないでしょうか*6。つまり、ラッパ我リヤのラップは、押韻を踏みつづけることに全力を尽くした結果として「駄洒落」になり、「耳ざわりが悪い」ものになっているのであって、彼等の作品を楽しむためには、彼等の押韻の回数をカウントするような聞き方をしなければならないということです。これは、超めんどくさいことですが、ラッパ我リヤのように押韻を日常言語の中から一つ一つ発見してくる作業と比べれば、すでに目の前に並べられた押韻の数をカウントする作業などたやすいことではないでしょうか*7。1押韻あたりに他のラッパーの5倍の魂を込めている(であろう)ラッパ我リヤのアルバム「ラッパ我リヤ伝説」を聞いて暖まりな(ヤバスギルスキル Part,4/山田マン)。

ラッパ我リヤ伝説

*1:ラップとは歌唱法のひとつです。ラップとブレイキング(ダンスの一種)、DJ(楽器演奏の一種)、グラフィティ(グラフ、絵や文字を書くこと、いたずらがき、タギングとも呼ばれる)の4つの表現によってヒップホップという文化は構成されています。

*2:ラップとは韻を踏むだけではなく、韻の踏まれている文字をどう発話するかというもう1つの側面をその表現法内に含む歌唱法です。この発話の仕方を、フロー(flow)といい、流れるように発話していく様がかっこいいものとされています。というのも、流れるように発話された方が聞き手には耳ざわりがいいためです。

*3:であるがゆえに、逆説的にいえば、音韻の等しい単語を反復させると同時に、意味内容をも伝達することができる人は優れた能力を持った人といえるわけです。たとえば「太陽と地面正面衝突 気温も上がり当然今日も 抑えきれない冒険衝動 誰もが戻る少年少女」(イツナロウバ/kreva)というフレーズはkase個人的には最も好きな日本語ラップのフレーズなのですが、「正面衝突=当然今日も=冒険衝動=少年少女」と「おうえんおうお」で押韻を合わせながら、夏のある一日のすがすがしさを叙情的に描写しているという意味で、意味内容をも伝達しているとても高度なフレーズです。

*4:ラッパ我リヤは山田マンというMCがこの発話法を好みます。彼の発話はブツブツと念仏を唱えるように行われるため「読経」に喩えられることもあります。Qも同じ傾向にありながら、どう単語単位で区切る発話のもとでリズムを刻んでゆくかという試行錯誤を繰り広げています。個人的には、文字による韻踏みのもとで、その発話様式を拡張しようとするQの試みにスポーツを見ているような感動を覚えます。スポーツも韻を踏むこともそれ自体では何の役にもたちません。「ただ走ること」「ただ高く飛ぶこと」「ただ韻を踏むこと」。しかし、それ自体では何の役に立たないはずのスポーツや韻を踏むことがどうして感動的なのか。そこに圧倒的な才能と努力が注ぎ込まれていることを人は知るからではないでしょうか。「ただ走ること」に注ぎ込まれた才能と努力。「ただ韻を踏むこと」に注ぎ込まれた才能と努力。どうしてそんなことに必死になれるのか、kaseには分かりませんが、そんなことに必死になっている人の不気味さはとても魅力的です。

*5:もちろん、境界事例は大量にあるわけですが。

*6:餓鬼レンジャーポチョムキン、韻踏み合い組合の面々くらいでしょうか。彼らと同レベルで踏みつづけることができる人々は。

*7:発見よりも単調な仕事であるがゆえに、退屈さは増すかもしれませんが。