基本的にこの日記は愛でできているわけなのだが、たまにはディスものもよかろうという個人的な判断から以下の文章を書きます。まずかったら、ばっさり削除よろ(てら、じょせ)。

さて、SFマガジンを手に取り、そこに「ゼロ年代の想像力」なるアジびらを見つけた。もちろん、アジびら自体はいろいろな意味でこちらの想像力を刺激させてくれるので、個人的には大好きなのだが。たとえば、「反共帝スタ」と堂々と書いてあるビラや「ハイデガーラテン語ギリシャ語も学んでなかったけど、教行信証を読みたいがために、日本語を学びたくなった」と書いてあるビラなど、どれもアホでおもろいし、想像力を刺激してくれる。しかし、今回のアジびらについては色々思うところがあったので、以下のような長文を書いてみた。もちろん、アジびらに文句をつけること自体、大人気ないといわれればそれまでだが。

さて、当の「ゼロ年代の想像力」、まず日本語がひどい。まぁ、それはいい。別に日本語が下手だからといって議論内容もだめだなんてことは主張できない。また、いわゆる仏文学が流行らせたジャーゴンが散見される点も筆者の思想信条にもとづく表現なのだろう(それにしても、自己言及型の「これはXXではない」というレトリックを、表現内容とは何の関係もなしにジャーゴンとして用いてしまえる著者の「ゼロ年代の想像力」は敬服に値する)。問題は内容だ。

セカイ系から決断主義へとさまざまなサブカルチャーが移行したということを、事例を用いて論証しようとしているのだが、まず第一に「セカイ系から決断主義」という安易な図式について批判をしておきたい。言うまでもなく、セカイ系とは、著者の議論に基づけば、ある種の物語の類型であり、同時に決断主義もまたある種の物語の類型であろう*1。まず、この2つの類型が単純に排他的なものであるわけではなく、いくらでも両立することを主張しておこう。著者は、セカイ系の限界を決断主義が突破してゆく程度の議論を安易に行っているが、そもそも物語の類型に限界だの、突破だのといったことは関係がない。それは類型であるがゆえに、単に作品の傾向を分類するラベルであり、いわば作品に対して外挿的に与えられたものに過ぎない。著者は、この点に不感すぎる。「私は、セカイ系と分類される作品をXXXと捉え、その限界をXXだと思います。そして、その限界を克服すべく、表現内容に対する切断として決断主義とでも分類されるべき作品群を対置することができると思います」。これが、本来著者が主張すべきことであり、安易に作品の話と類型の話を混同すべきではない。そして、本来著者が主張すべきことを検討すればわかるように、この主張はあくまで著者の私観であり、同時にこの考えがいかなる意味で正当化されるのか、その点を検討するべきではないのか。そして、その検討のない主張は単に好悪の感想でしかない。

さて、このアジびらでは「デスノ」や「ギアス」が決断主義の台頭の論拠として検討されている。さて、こうした作品を決断主義とみなす論拠はどの程度あるのだろうか。「ギアス」に例を絞ろう。全能感をもち、生まれも卑しくない中2病の主人公が、たまたま能力を持ち、世界を変えるべく、動き出す。作品の面白さは、多くの人間関係を精妙に描きつつも、同時にロボットアニメとして秀逸な点にある。さて、著者は世界を変えるべく、動き出す点に決断主義を見出すのであろうか。ここで、検討すべきは動機である。主人公は単に血の宿命のもとで、復讐を果たすべく、躍起になってテロ行為を繰り返すのではなかったか。また、カレンのテロ活動の理由も母親の問題というきわめて私的な問題を駆動要因としているのではないか。ここで、再びセカイ系決断主義の問題が出てくる。僕と君の関係が世界の全てであり、僕と君の関係の変化が世界を変える、あるいは世界の変化が僕と君の関係を変えるということをセカイ系のユルイ定義ととらえれば、コードギアスは端的にセカイ系に属する作品であり、仮にギアスを「決断主義」だと著者が呼ぼうとも、ギアスをセカイ系からの切断と捉えることはできないのではないか。むしろ、セカイ系に内属する作品ではないか。ここら辺の曖昧さも、「決断主義」をセカイ系とは両立しないものと暗に定義している著者の考えに起因する。

さて、そもそもセカイ系決断主義を同じカテゴリーとみなすことが誤りではないのかということを最後に述べておきたい。これはあくまでkaseの考えであり、著者の考えに対する直接的な批判ではない。著者は、セカイ系決断主義も物語の類型とみなしている。果たしてそうであろうか。確かに、セカイ系は物語の類型、構造、もっといえば世界設定上の1系であろう。では、決断主義は物語の類型なのだろうか。私はそうは思わない。私は、決断主義は物語展開上において必要なプロットのひとつと考える(簡単に言えば、起承転結みたいに大雑把に話を分解したときに、「起」や「転」に位置するストーリー上のエピソードの類型ということ)。このように定義すれば、いかなる作品にも決断主義的なプロットはある。エウレカセブンなんて、レントンによる決断主義的な行動の連鎖で作品ができていた(だけど、作品自体はまさにセカイ系の構造でできている)。早い話が、セカイ系とは物語の類型であり、その構造や世界設定のカテゴリーに属するのに対して、決断主義は、あくまでそうした構造や世界設定内における1要素であるというのが、私の考えである。もし、この考えが正しいならば、著者は安易なカテゴリーミステイクを犯していることになる。

となると著者は「決断主義」という語で何を意味しているのか。意思的な行為によって、状況を変えることを「決断主義」というのか。それとも、思考と行為という安易な対立を前提に、行為に概念的な優先権を与えることを「決断主義」というのか。それとも、単に「君」のいない僕が「君」以外の動機でアクションを起こすことを「決断主義」というのか。もちろん、この場合の「君」は異性に限定されるのであろう。列挙したいかなる意味でも、結局は物語内容に登場する対象の行為の性質を指して「決断主義」と呼んでいるのであり、それは先ほど論じたようにやはり世界設定のレベルにおける類型ではなく、その世界に属する対象のレベルにおける類型ということになろうる。私には彼の主張の本意はよくわからなかったことをとりあえず告白しておく。

蛇足ながら。「セカイ系」について考察する部分で、どうして「エウレカセブン」を論じなかったのだろうか。別に論じる気がなかったからといわれればそれまでだが。エウレカセブンほどセカイ系を表現しきった作品はないというのに。

私は現在進行形のアニメや漫画を論じようという著者の問題意識にも共感するし、先行者(この場合、東だが)を批判することを恐れないという態度も立派だと思う。だが、こうした態度の立派さや問題意識の高さと「論証上の過ち」とはいくらでも両立する。私が今回このようなものを書いた理由は、著者の論を十分に検討せず、またその論証のチェックなどを行わずに、安易にそのメッセージだけを受け取って「セカイ系は古い」だの「エヴァ清算された」だのといった御託を並べているblog上のくずな人々に吐き気を覚えたからである。

*1:ここでは東や宮台の議論は無視する。無視しても論旨には関係がない