「喰いしん坊!」がらみのブログでの熊田vsサンシローの評価について。

 「うな丼にお茶をかけてすすってもいいんじゃね、ていうか「ひつまぶし」を食べるときにうな茶にして食べるということを知らんのか(転じて、うな丼に茶をかけてすするという食べ方に「邪道喰い」判定を下すことは「ひつまぶし」という名古屋の食文化の産物をバカにしているのか)」という主張がなされてたりするのだが批判したい。そもそも「うな丼勝負だ!」と言っておきながら「お茶をかけてすする」という行為は「うな丼」を食べることになるのか。
 たしかに目の前の「うな丼」を胃の腑に収めているのだから「うな丼」を食べたことになるのかもしれない。しかしそれは「うな丼勝負」をしたことになるのか?


 あえて言おう、それは「うな丼勝負」ではないと。立てよ国民!


 例えば、「マラソン勝負」の場合、対戦相手がローラースケートを履いて42.195キロを完走するという行為は「マラソン勝負」を行ったといえるのだろうか。
たしかにローラースケートを使用してでもなんでも42.195キロを完走しさえすれば、「マラソン完走」という事実は否定できない。しかし、「勝負」と言えるのだろうか。
 ぶっちゃけていえば、勝負者同士が同一のスタートラインに立っていない勝負は「勝負」ではないと思われる。勝負者同士を同一のスタートラインに立たせるためには、勝負を成立させるためのルールがあるはずであるが、「マラソン」という競技に対して「ローラースケート」というルール外の要素を持ち込むということは、そもそも「勝負」という枠組みを崩壊させるのではないか。勝負者同士の間に明確な力量さが認められるならば、勝負者間の合意の下で「ハンデ」をつけることはありうる。だが、合意なしに「ローラースケート」を使ってマラソン「勝負」を行うことは、すでに「勝負」という状況設定を無視する事になるだろう。
 「うな丼勝負」において「うな丼」にお茶をかけることも同様だろう。つまり、サンシローは物理的には「うな丼」を食しているだろうが、それは「うな丼」なるものを飲み込んだだけであって。「勝負」をしたことにはならないだろう。それゆえ、「うな丼勝負」において「うな丼」に茶をかけてすするという行為は「邪道喰い」であるといわざるをえないだろう。


 追記しておくが、作者土山しげるは「ひつまぶし」の存在を知っていたか知らなかったのかは解らない。ただ、満太郎が名古屋を訪れた際*1に「ひつまぶし」を食していることから、現在は「ひつまぶし」の存在を把握しているといえる。
 また、もし満太郎や錠二が「ひつまぶし勝負」を行った場合、「ひつまぶし」の食し方にのっとって、最初はそのまま茶碗によそって一杯食べ、次に薬味を乗せて食べ、最後にうな茶にして食べる、という三段階を守り通すであろう。たとえ対戦相手が一杯目からうな茶で食べ始めても、である。ルールを杓子定規なまでに守り抜いて勝負に勝つのが真の「正道食い」なのだよ。


 そんな「喰いしん坊!」の新刊は7月9日に発売!


 ※一晩考えたら、基本的な主張(うな丼にお茶をかけてすするのは邪道喰い)は間違っていないのだが、文章構成がけっこう曖昧な気がしてきたので、再考して書き直します。この文章はそれまで晒しものに。

*1:5巻とか6巻あたりだったはず。